2023年に逝去した6代目 小清水半蔵の息子、山伏で彫刻家の小清水建法(頂山)とその弟子、小清水康夫が取材頂いた文を書き起こしたので、今回は原文と絵をそのまま掲載します。
写真は後から追加しております
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早雲の子孫が創始 木彫り 絵と文 クミタ リュウさん 伝統を生きる 人技品
東京新聞 1990年 9月12日より
長屋の一角は、厳しい西日にされされていた。
小清水康男さん(39)はその中で、流れる汗をぬぐうこともなく、作品と対峙していた。やっと形を現しはじめた木彫りの龍は、永い眠りから覚めようとしているようだった。
「ここは暑いですよ」と、義父の建法さん(62)は、路地に水を打ちはじめた。ここ小田原市栄町の仕事場には、粗彫りの終わった天女や鳳凰が立て掛けてある。
横浜のお寺の欄間に取り付ける作品で、住職の肝いりで小清水さんに白羽の矢が立ったのだ。木彫りは、粗彫りで作品の良し悪しがほぼ決まるそうで、「彫りながらイメージを膨らませることが大事」とのこと。
城下町として栄えた小田原は、北条(早雲)家の子孫に木工芸に造形の深い人物を得て、優れた工芸品を今に残した。北条氏の菩提寺である箱根湯本の早雲寺には、小田原彫の名品が残っている。
康男さんは、この道20年余年。アルバイトがきっかけで木彫師の道を歩むことになったそうだ。観光地のお土産品を作る木工所で働いていた
アルバイト先の近くからコンコンと彫り物をする音が聞こえてきた。建法さんの打ち付ける槌の音だった。「自分の作ってるものよりも遥かに面白そう」と弟子入りを願い出たのである。
当時、小田原には、十人ほどの若者が木彫師を夢見て修行していたが、康男さん一人が意思を貫き通した。その後、建保さんに将来性を見込まれたのであろう、むこ養子となった。
建法さんは、天台宗園城寺から法名をいただく山伏でもある。仏像の修理、制作には、仏像の儀軌(法則)を会得せねばと、仏道修行を山野にもとめられたのである。今でも年二、三回は、霊山に分け入り、修行を積まれる身であるとか。
「形ばかり彫って中身が伴っていない」と、両面の必要性を解かれる建法さん。
今は幻となった小田原彫を蘇らせたいと夢を膨らませている、
”鎌倉彫”という良きライバルもある。二代目康男さんの協力も得てぜひ彫り上げてもらいたいものだ。
1下絵
注文の絵柄を仕上げケヤキ材に下絵を複写していく
2下彫り
複写した上から墨入れをして、抜き取る部分はドリルであらかじめ穴を開ける
3荒彫り
木彫りで一番大切な工程で取り付ける位置を考え彫りながらイメージを膨らませる
天女はおだやかな顔と手がポイント
☆荒彫りは作業時間の3分の一は考えている時間
☆ダイナミックで立体的な作品にする
ノミは三十種類 三百本ほどある
4筆入れ
彫りの途中で筆を入れ、形の確認をする
5仕上げ彫り
木槌で細部を彫りさらに手彫りで仕上げる(磨きや塗りはしない)
☆欄間8点を一年間で仕上げる
原文
筆者(9代目)が取材を読んで
お弟子さんの康男さんは、2023年現在でも、「自分が作った作品で納得して納品できた作品は一つもない」と仰っていました。このことからも師匠である、頂山の意思を今でも引き継いでいると思います。
また工房に入ると、取材にある通り、300種類以上もののみが箱にきれいに整理整頓されており、細かい部分まで、道具にこだわり木彫りを行っています。(下記画像は、逝去した頂山の仏壇に置かれている仏像で、弟子の康男さんが制作しました)
※ただ現在、お弟子さんによる木彫り製作依頼は、納期の指定なしで、御本人がやりたい、と思った依頼のみ製作依頼を受け付けております。また依頼後に詳しい内容を伺った後にお断りする可能性もあります。
また取材を受けた頂山は、木彫り以上に仏像や仏教が好きだったんだと感じています。だからこそ仏像について掘る前に研究を重ね、その後に木彫りで様々な作品を生み出せたのだ、と思います。
9代目長男による頂山の解説記事は下記から
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